大晦日、除夜の鐘(108)を聴きながら感じる事ですが、
108煩悩を捨てる。道に背き迷うことなかれ、捨て去るごとに煩悩は消えゆく。
空を悟れば心は解き放たれる。心理を知れば新たな世界が開く、因果の行く末に思いを巡らせても生死の瞬間は誰にも分からない。欲にまみれて悪に手を染めた時、悔い改めればいつか救われる。人々が欺き合えば、信じあう術を失う。猜疑心が己を苦しめる。
神が人類に魂=意識を与えたが為に。
魂=意識=量子
科学の力を超える魂や意識が量子ソウル理論になるのでは。
般若心経に出てくる「色即是空 空即是色」。
「色」とは物質などの「形あるもの」を指すのですが、これ即ち「空」である。その逆も真である、と言っているわけです。ここにヒントがありそうです。
以下、私の勝手な解釈ですので、研究者の方から「いい加減なことを書くな」とお叱りを受けるかもしれません。まあ、それを承知で書いてみます。
私たちが見ている「物体」とは、いわゆる光が反射したものを見て、その形を認識しているわけです。物体の性質によって反射するスペクトルが異なるので、色が付いているように見える。
その光のうち、人の可視領域のすぐ外側にある電磁波を紫外線といっています。(紫は「黄泉の世界」を象徴する色だとも言われていますね)
それより、もっと波長の短い高エネルギーの電磁波(ガンマ線より、ずっと高いエネルギーを持つ電磁波)であれば、原子の最小単位といわれている素粒子をも突き抜けてしまうのではないか。
すると、「X線の眼を持つ男」ではないですが、そうした高い周波数を持った電磁波しか見ることのできない観察者がいるとしたら、その人の眼には物質が透明に見えるはずです。「そこ」には何もない。
しかし、私たち人間の眼には、そこに物体があるように見える。実際に手で触ることもできる。
逆に、ある人の体を構成する要素が、ものすごい速さで振動していたとすると、私たちには半透明、もしくは透明に見えるはずです。しかし、手で触ると掴むことができる。SF映画の透明人間ですね。
今度は、私の体を構成する要素が、それこそ分子、原子レベルで凄い速さで振動しているとすると、テーブルの上に手を置こうとした私は、スルッとテーブルを突き抜けてしまうはずです。
私の存在は人間の眼には見えないし、手で触ることもできない。私はここにいるのに。完全に幽霊ですね。
映画「ゴースト/ニューヨークの幻」状態です。
これが「色即是空 空即是」のことではないのでしょうか。
実体はあるのに「見えない=空」。見えるのに「実相」ではない。
つまり、ものごとの実相とは、これすべてエネルギーに過ぎない。
形(色)とは、実相ではない、ということ。
本当の姿は、すべてエネルギーである。「色」とは、束の間、実相が物質化したものにすぎないのだから、もともと空である。すべてが「空=エネルギー」である、と。
つまりは量子力学の波動力学では、物質とは同時に、エネルギーの波でもある、と結論付けているわけですね。
物質はエネルギーの波動であり、その逆も真である、と。次元によって、形が変わるだけ。
三次元に住んでいる私たちは「色=形あるもの」を見て、判断し評価して暮らしている。しかし、それは本質ではないと。
究極は、「人は、実相から受けた波動を認識しているだけ」ではないのか。
それを映像化しているのは、眼であり、脳であるに過ぎない。そもそも、これが間違いの元ではないのか。幻影であると。
心(脳ではなく)で感じること、これこそが真の実相ではないのか。
そして、心の実体とは脳や心臓ではなく「魂」そのものである。
般若心経は、こういうことを伝えているのではないでしょうか。
E = m c2
エネルギー=質量×光速の2乗という式です。光速というのは定数ですから、エネルギーは質量で決まる、ということになります。しかし、光速よりもっと速い波動の世界が存在すれば……。
ひょっとすると、もっと高次元、五次元、七次元という世界では、光速より速いスピードで振動しているのかもしれません。光速を超えた世界。それが「神界」と言われているところなのでしょうか。