印を結ぶことによって仏との一体化を目指す 仏像の鑑賞は“手元”から!密教の印を知ろう

こんごうかい金剛界大日如来のち智けんいん拳印(だいにち大日こぶしじるし拳印などの別名あり)。たいぞうかい胎蔵界大日如来はほうかい法界じょういん定印を結ぶ
仏像が両手の指で表すさまざまなかたちを印といいます。そのかたちは仏や菩薩など、それぞれにパターンがあり、同時にそれぞれの徳や悟りを表すものです。ここでは仏像を鑑賞するときに役立つ、印の基本を解説していきます。

ふ降さんせい三世みょうおう明王の降三世明王印(大印)
両手の指で多様なかたちをつくる印(いんそう印相、印契、密印ともいう)。そのルーツは、バラモン教の祭祀における舞踊において、有形無形のものを手指で表現したムドラー(ジェスチャー)にある。ムドラーの中には、現在の密教の印に通じるものが少なくない。
仏教は当初、偶像崇拝を行っていなかったが、釈迦の入滅から数百年経って、仏像がつくられるようになった。その頃の仏像が結ぶ印は、釈迦が悟りを得た状態を表す「定印(ぜんじょうじるし禅定印)」、釈迦が悟りを開いた後、惑わそうとする魔物を退けた際の「触地印(降魔印)」、釈迦の最初の説法を象徴する「せっぽうじるし説法印(転法輪印)」をはじめ、釈迦が行ったことや釈迦にまつわる伝説を説明する意味合いのものだった。
この3つの印に、仏教の力によって人々の恐れを取り払うことを示す「施無畏印」、人々の願いを聞き入れることを示す「与願印」を加えた5つの印は「釈迦の五印」と呼ばれ、その後の仏像の印としても多く用いられている。
印はその後、大乗仏教から興った密教によって、古代インドの神々やムドラーなどの要素が取り入れられた結果、諸尊の徳や悟りの内容を象徴するものとして、さまざまなかたちが用いられるようになる。さらには仏像だけでなく、僧が結ぶようになった。

だいいとく大威徳みょうおう明王のだんだ檀陀いん印(だいいとく大威徳こんぽんいん根本印)
真言密教では、手に印を結び(身密)、口で真言を唱え(口密)、心に仏を思う(意密)ことで、仏の身体(身)、言葉(口)、心(意)の働きを表す「三密」と一体化することで悟りの境地に達すると考える。そのため印を結ぶこと(身密)は、口密、意密とともに特に重視されている。
また、真言密教では、右手の親指から順に識、行、想、受、色、という「五蘊」(仏教で、人間の心身をつくり上げていると考える5つのもの)、左手の親指から順に空、風、火、水、地という「五大」(万物をつくり上げる5つのもの)をそれぞれ象徴すると考え、印でこれらを組み合わせることでさまざまな教えを説く。また手指はそれぞれ、親指=大指、人差指=頭指、中指=中指、薬指=無名指、小指=小指という異名で表される。
五蘊(ごうん)は、五陰(ごおん)とも表記されることがあります。
五蘊とはお釈迦様の教えを理解するのにとても大事な要素で、私たちの心と体の働きを詳しくまとめたものを言います。
五蘊とは「色受想行識」
五蘊は物質である体・肉体を意味する、色
そして、私たちの心・精神、考えるプロセスを細かく分類した受・想・行・識という4つに分かれます。
色 → 受 → 想 → 行 → 識
色、受、想、行、識の5つのうち、「色」だけは物質的なもの、物体を意味する言葉である。
人間でいえば肉体。つまり人間の形をなしているものはすべて「色」に分類される。
なので、体や髪の毛、爪や血液など、物体として存在するものはすべて「色」となる。
残りの受、想、行、識はすべて精神的な作用を意味している。
精神的な作用を4つに分類するという考えが、聞いただけでは理解しづらいところかもしれないが、順を追って説明するのでご安心を。

五蘊の色(しき)
五蘊の色は私たちの体・肉体を意味します。
色というのは仏教用語で、物質全般を意味しますが、五蘊の色は特に体を意味します。
五蘊の受(じゅ)
五蘊の受は私たちの知覚、物事を感じることを意味します。
受は「何かが見える・聞こえる・臭う・味がする・触れていて感じる」という五感で感じることを意味します。
五蘊の想(そう)
五蘊の想は受で感じ取ったもの事が何なのかということを理解することです。
受と想の違いを簡単に説明すると、下の画像を見てみてください。
五蘊の行(ぎょう)
五蘊の行は、受・想と来て判断した物事に対して、意思を持って何か行動に移そうとする心の働きを意味します。
上記の例で言うなら、楽しいよと伝えるのに、文字だけより絵文字がある方が伝わると思うから文章に追加しますよね。この意思を持つ心の状態を行と言います。
五蘊の識(しき)
五蘊の識は感じたものに対して、それを認識する働きを意味します。
受・想・行の次に来るというより、同時に発生することとイメージしてください。
五蘊とは何かわかりやすく日常の例に当てはめると
五蘊をイメージするため、次のような状況をイメージしてください。( )カッコの中はサンスクリット語
<色> しき(ルーパ) 物体
体が動いています。そして体が動いた結果、例えば公園についたとしましょう。
この時点では特に何も考えずただ体が動いた結果公園にいたとします。
<受> じゅ(ヴェダナー) 感受
公園に行くと、小さい声を上げる”何か”がいることに気づきます。
この時はこの”何か”は目に入って来る映像、耳に入ってくる音だけの存在です。
<想> そう(サムジヤナ) 表象(象徴)
眼に入ってきた映像と耳に入ってきた音は、”小さな子供がこけて泣いている”のだとわかります。
<行> ぎょう(サンスカーラ) 意志
小さな子供の近くに行き、起こしてあげるという意思を持ちます。
<識> しき(ヴィジュニャーナ) 認識
小さな子供が泣いている姿を見て、「可哀想に、助けてあげないといけない」と受・想で理解した状況をどんな状況か認識するというのが識です。

私たちは普段何気なく行っていることは、深く考えて行っていることも、そうでないことも、すべては五蘊に当てはめることができます。
この五蘊という働きに気づいたお釈迦様はこの五蘊について次のように解説をしていきます。

五蘊盛苦とは|四苦八苦の一つ
五蘊盛苦は「ごうんじょうく」と読みます。
そして、これは四苦八苦という人が人生を送る中で絶対に逃れることができない8つの苦しみの一つに数えられています。
五蘊盛苦の意味は、私たちの心と体である五蘊は苦しみを生むんだということです。
仏教の最も大事な4つの教え(四法印)の一つである一切皆苦(いっさいかいく)という言葉がありますが、この世は苦しみだらけなんだとお釈迦様は言います。
この世の苦しみとは、思い通りにならない苦しみのことを意味しています。
つまり、どんなに高い美容液を付けたり、エステに通ったり、良いものを食べたりしても人は遅かれ早かれ必ず老いていきますし、死にます。
体がある限りはその苦しみは逃れられないですし、生きていく中で、好きな人といつかは別れる苦しみを感じ、嫌いな人と出会ってストレスを感じるという心の苦しみからも逃れられません。
五蘊という存在は苦しみを生む元凶だということです。
四苦八苦(しくはっく)の仏教での意味
四苦八苦というのは、4つの苦しみと8つの苦しみという意味ではなく、4つの根源的な苦しみに、4つの苦しみを加えた8つの苦しみを意味していて、12の苦しみと言うことではありません。
四苦八苦以外でも、仏教では「苦しみ」という言葉がよく出てくるのですが、これらは「思い通りにならない」ことから感じる「苦しみ」を意味します。
そんな仏教における四苦八苦が意味する、8つの苦しみと言うのは、
• 生苦(しょうく)
• 老苦(ろうく)
• 病苦(びょうく)
• 死苦(しく)
• 愛別離苦(あいべつりく)
• 怨憎会苦(おんぞうえく)
• 求不得苦(ぐふとくく/ぐふとっく)
• 五蘊盛苦(ごうんじょうく)
この8つを意味します。
最初の4つは生老病死(しょうろうびょうし)という四字熟語でもまとめられ、四苦に当たります。
それぞれ詳しく意味を見ていきましょう。
生老病死の意味
生老病死という苦しみは、どんな生活を送っても、人間である限り絶対に避けられない、つまり思い通りにならない苦しみです。
生苦|生きる苦しみ
生苦は生きることが苦しみという意味です。
この後見ていく四苦八苦の他の苦しみは避けられず、人生は苦しみばかりなのだと考えます。
仏教では一切皆苦(いっさいかいく)という、「人生全て苦しみ」と言う言葉まであります。
楽しいことも幸せな時間もあるのに、仏教はなんてネガティブだと感じますが、楽しい時間、幸せな時間は一生は続かず、さらに楽しい・幸せという状況を奪われると、強い苦しみを感じるものです。
「生きることが苦しみなのであれば、人生なんて送らなければいい」
そう考えるのではなく、仏教では「苦しみばかりの世界」でどうやって苦しみから解放されて生きるのかという実践的な教えがあります。このことは後程ご紹介いたします。
老苦|老いる苦しみ
老苦はそのまま、老いる苦しみです。
老いることを肯定的に捉える人や、考え方もありますし、実際老いることによる美徳などもあります。
しかし、体や頭が若い時と同じように働かなくなり、病気やけがにも苦しみやすくなりとやはり苦しみであると考えられます。
病苦|病を患う苦しみ
病を患う苦しみもやはり、人生の中で避けられない大きな苦しみです。
病は若い時、老いてから、どんな時でも苦しく、怖いものです。
死苦|死ぬ苦しみ
そして、最後は死ぬという苦しみです。
古今東西、古代の皇帝や王が不死の薬を部下に探せたり、祈祷をしたりなどをしましたが、やはり死ぬということは避けたいと思うのがほとんどの方の考えではないでしょうか。
人間がどれだけ良い人生を歩み、どれだけそれを続けられるように努力しても、必ず死という終わりがやってきます。
お釈迦様は生老病死の苦しみを目の当たりにし、その解決策とは何なのかを追求するために出家し、悟り(涅槃)の境地に達したのです。
生老病死についてや、生老病死についてのお釈迦様の言葉はこちらで詳しく解説しています。
生老病死とは|仏教の四苦八苦の四苦
生老病死とは実は仏教由来の言葉です。
生老病死は、ただ「生きる、老いる、病む、死ぬ」ではなく、
• 生苦:生きる苦しみ
• 老苦:老いる苦しみ
• 病苦:病む苦しみ
• 死苦:死ぬ苦しみ
4つの人生で避けることができない根源的な苦しみのことを意味する言葉です。
生老病死の読み方は「しょうろうびょうし」
生老病死では、生を「しょう」と読みます。
ここからは、生老病死という人生の苦しみを乗り越えるためにはどうすればよいのか、その答えを悟ったお釈迦様の言葉や、生老病死の意味についてさらに詳しく見ていきます。
生老病死の意味(お釈迦様の見解)
生老病死の意味は、先ほど見た通り、生苦(しょうく)、老苦(ろうく)、病苦(びょうく)、死苦(しく)の4つの苦しみのことです。
生老病死の苦しみを含み、仏教の苦しみと言うのは「思い通りにならないこと」「自由でない境地にいること」を意味します。
老いることや、病気にかかる苦しみ、また人はだれでも死ぬという究極的な苦しみは、どれだけ頑張っても今の科学では乗り越えられない、「思い通りにならない」ことの代表ともいえます。
老化防止、病気の予防などなどどれだけ徹底しても、老病死を避けることはできません。そして、自分が醜くなること、病気で苦しむこと、死が迫ることに対する苦しみにどんな人も少なからず苦しむのではないでしょうか。
では「生きる苦しみ」とはどういう意味なのかについて詳しく見ていきます。
生老病死の生|生きる苦しみとは
仏教では、一切皆苦(いっさいかいく)とも言いますが、この世のすべては苦しみなのだという考えからスタートします。
仏教では生きること自体苦しみだというのです。
もちろん楽しいこと、嬉しいこと、幸せなこと、それらが存在しないと言っているわけではありません。
ただ、それらの楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことはいつまでも続くわけではなく、さらにそれらポジティブな感情が大きければ大きいほどネガティブな感情、つまり苦しみを生み出すと考えます。
例えば、とても気の合う友達や恋人、好きなことを想像してみてください。
その友達といると(好きなことをしていると)、いつも楽しく、最高の気持ちだと思います。もしそんな友達や恋人、好きなものが突然この世から失われるとしたらあなたはどう感じるでしょうか。
最高の気持ちは一転、最悪の感情を生むと思います。
好きな気持ち、楽しい気持ちが強ければ強いほど、苦しみが大きくなるのです。
これは一つの例ですが、大なり小なり、私たちの生活のあらゆる感情は苦しみに通じていると考えられます。
そして、老病死という人間として生きていると絶対に避けては通れない苦しみとも私たちは直面します。
このような苦しみばかりの世の中であるのなら、「生きること」それ自体がもはや苦しみなのだというのが、生の苦しみということです。
愛別離苦(あいべつりく)
愛別離苦とは、先ほど好きな友達や恋人との別れの苦しみという例もありましたが、「愛する人と離れることの苦しみ」を意味します。
人に限らず、ペットでも、モノでもあらゆる愛着の湧いた対象との別れはつらいものです。
愛別離苦についてはこちらで詳しく解説しています。
愛別離苦とは|意味や読み方,お釈迦様が説く乗り越える方法を解説
怨憎会苦(おんぞうえく)
怨憎会苦とは「憎い人、腹が立つ人と会うことの苦しみ」を意味します。
人はよほどのことがない限り、社会の中で生きていて、他人と関わり合いながら生きていきます。
会社の上司や部下、学校の腹立たしい人という同じコミュニティで、そのような出会いたくもない人間と出会ったり、買い物先の店員、道端の人、いたるところで嫌な思いをさせるような人と出会うことがあります。
それらは避けようと思っても、突然やってきて「憎い、腹立たしい」という感情を生み私たちを苦しめます。
求不得苦(ぐふとくく)
求不得苦とは「求めたものを手に入れることができないことの苦しみ」を意味します。
努力しても手に入れられなかったモノ、栄冠、地位、財産などなど、私たちの生活で求めて努力をしても、それが手に入るとは限りません。
強く欲しいと求めたものを手に入れられなかった時、強い気持ちがあればあるほどその苦しみは大きくなります。
五蘊盛苦(ごうんじょうく)
五蘊盛苦とは「私たちの心と体は苦しみ、この世の一切のものは苦しみ」ということを意味します。
五蘊(ごうん)という言葉が少し難しく感じると思いますが、これは簡単に言うと、心と体のことです。
この理解について、経典では「五蘊という心と体はすべて無常(消えていくもの)であり、無常ということは苦しみということ」と説かれています。
「私たちの心と体である五蘊が苦しみなのだ」と言われても、意味が理解しにくいと思いますので、少しかみ砕いて解説しますと、「私たちのもの」と考えている私たちの心と体という存在は、私たちの思い通りには動きません。
老いること、病にかかること、死ぬこと、どれも私たちの体が私たちの思った通りではありません。むしろ望みとは反対に変化していきます。
全ては変化していくということを諸行無常と仏教では言いますが、思い通りにならない心と体も実は苦しみ、苦しみを生むものなんだということなのです。
五蘊や五蘊盛苦についてはこちらで詳しく解説していますので、ぜひご覧ください。
五蘊盛苦の意味は、私たちの心と体である五蘊は苦しみを生むんだということです。
仏教の最も大事な4つの教え(四法印)の一つである一切皆苦(いっさいかいく)という言葉がありますが、この世は苦しみだらけなんだとお釈迦様は言います。
この世の苦しみとは、思い通りにならない苦しみのことを意味しています。
つまり、どんなに高い美容液を付けたり、エステに通ったり、良いものを食べたりしても人は遅かれ早かれ必ず老いていきますし、死にます。
体がある限りはその苦しみは逃れられないですし、生きていく中で、好きな人といつかは別れる苦しみを感じ、嫌いな人と出会ってストレスを感じるという心の苦しみからも逃れられません。
五蘊という存在は苦しみを生む元凶だということです。
その他生老病死など人生の苦しみをまとめた四苦八苦についてはこちらで詳しく解説しています。
四苦八苦の意味とは|語源となる仏教の教えや四苦八苦するの使い方など解説
仏教の「人生は全て苦しみ・一切皆苦」という教えの、本当の意味や、お釈迦様が教えるその苦しみから逃れる方法についてはこちらで詳しく解説しています。
五蘊皆空は「ごうんかいくう」と読みます。
五蘊皆空という言葉は、般若心経というお経にも出て来る、仏教ではとても重要な考え方ですが、かなり理解しにくい概念と言えます。
五蘊皆空の意味
五蘊皆空の意味は「私たちの心と体(五蘊)というものは、本当は存在してません」という意味です。
今この文章を読んでくださっているあなたも私も、実体は存在しない「空(=実体がないこと)」なんです。
と言われても五蘊皆空の意味は分かりにくいと思います。
今スマホかパソコンかを持っている手、文章を読んでいる目(色)
文字を読んで内容を理解しようとしている頭・心(受想行識)
五蘊は実在しているように思いますよね。しかしお釈迦様はこの五蘊は全部実体がないというのです。
照見五蘊皆空度一切苦厄という般若心経の一説
五蘊皆空の意味を深く見る前に、般若心経が説くとても大事な一説をご紹介します。
これは、「自分を含むこの世のすべてを構成する五蘊というものは実体がない(=五蘊皆空)とわかると、苦しみや災いから解き放たれますよ」という意味です。
つまり、五蘊皆空が分かれば、人生の苦しみから解き放たれるのです。
それほど大事な考えですので、難しいと思わず、ぜひ理解していただければと思います。
般若心経というお経についてはこちらで詳しく解説しています。
五蘊皆空の意味をわかりやすく例えると
五蘊皆空の説明については、たくさんの説明がありますので、これはあくまで一例です。
五蘊皆空をイメージしてもらうために、皆さんの「心や体の本体とは何?」について考えてみてください。
まず体について。
私たちの体は何兆もの細胞という小さな箱でできているというのはご存知だと思います。
そしてこの箱が心臓や肺や脳などなど、体・肉体を作っているわけです。
この箱の中には、ミトコンドリアという太古の昔は人の体の外にいたと言われる小さな生物がいることを中学校の理科で習ったのを覚えていますか。
つまり、あなたや私という一人の生き物の体を構成する最も基本的な要素の細胞には別の生き物がいて、私たちの体は何兆もの別の生き物によって生かされています。(※他にも口や腸を始めたくさんの微生物が体に住んでいます。)
こう考えると、私という一人の生き物と思っているこの体って
本当にたった一つの生物なのか?
たった一つの実体をもつもの?となりませんか。
意識についても同じです。
まだ完全に解明されていないのですが、この20年で意識と脳についてのたくさんの研究がなされています。
これらの研究の中の「私」という意識・実体ってあるのか?と感じる話をご紹介しましょう。
皆さんが自分だと感じているこのスマホやパソコンを見ている体に宿る魂や心というものが、体の中の考える機関である脳みそにあると考えるとします。
私たちの心であり、唯一絶対の「私」がいる脳みそは外からの刺激で操作することができるという研究結果があるのです。
2014年にバルセロナ大学(スペイン)、ストラスブール大学(フランス)、ハーバード大学(アメリカ)の研究者の共同研究で、脳と脳だけで遠く離れた人達のコミュニケーションが取れるのという実験がありました。
これは脳に直接触れず磁気によって脳を外から刺激して、ある実験者の脳で考えたものを、他の実験者に磁気という外からの刺激で伝えるというものです。
結果はインドとフランスという離れた地にいる人達は、ある人の脳で考えた情報をインターネットを通して別の人がいる場所に伝え、その情報を脳に磁気という外からの刺激によって伝えることで遠く離れた2人の脳が通信できたというのです。
この実験の何が「私」という固定した存在がないという話とつながるのかと言うと、簡単に言えば、磁気だけで「私」という存在は操作することができるということです。
目で見ていない、耳で聞いてない、感知していないものが、磁気の力で脳の中で生まれるのです。
磁気によって脳内の電流の流れを変化させれば、脳はもっと変化させることができるようになるでしょう。
私たちの「心」「意識」のある脳は磁気が支配することもできるのです。
だとすると「心」「私」「意識」という唯一絶対の実体ってあるのか?となりませんか。
ちなみに、この五蘊皆空の心の部分の捉え方には他にもあります。先ほどの絵文字の例を取って解説すると、
「あれはニコニコと朗らかな笑顔」と考えることもできますし、
「笑顔の裏ではおぞましいことを考えているサイコパスのような人の顔」と考えることもできます。
このように人の意識によって、物事の捉え方は千差万別で固定したものはない(実体はない)と理解できます。
話は長くなりましたが、私たちが思う唯一の存在の「私(体や心)」と思うものなんて存在しない、五蘊皆空なんだよと言えるのです。
五蘊無我(五蘊非我)とは
五蘊無我、五蘊非我は先ほど説明した五蘊皆空と似た概念です。
私たちの思う唯一絶対の「私」を構成する「五蘊」には実体なんかないのだということを意味します。
無我というのは「実体がない」ということを意味していて、この場合の「我」というのは、「実体をもつ唯一のもの」という意味です。
無我は簡単な説明だとイメージしづらいものですので、無我についてはぜひこちらをご覧ください。
無我の意味とは|仏教の無我とは深い世界観は苦しみから逃れる鍵
ちなみに、五蘊皆空や五蘊無我という理解は、諸法無我という仏教の最も大事な3つの
教えにも通じるものがあります。
諸法無我についてはこちらで詳しく解説していて、こちらではさらにイメージがしやすい、お笑い芸人の笑い飯哲夫さんの例を交えて解説しています。
この世界の苦しみから解き放たれるとても重要な考え方ですので、私たちの体や心(五蘊)には実体がないということをもっとわかりやすくイメージしたいという方はぜひこちらをご覧ください。
五蘊仮和合とは
五蘊仮和合というのは、五蘊皆空を理解すると、わかると思います。
あなたや私などの存在を構成する五蘊(心と体)というものは、実体がないものなのですが、今はそれは仮に一つになってあなたや私という存在になっているという考え方です。
存在していると思っている「私」という存在は、五蘊が仮にくっついて(和合)いるだけのものなのです。
五蘊を含むあらゆるモノは、因縁生起(縁起)によって存在していると考えます。
因縁という考えや縁起という考えについてはこちらで詳しく解説しています。
五蘊|般若心経の教え
長々と解説をしてしまい、五蘊について伝わっていることを願うばかりですが、この五蘊を理解した先に何があるのかというのが、最も大事なポイントです。
• 五蘊は色受想行識という心と体のこと
• 五蘊は苦しみの源:五蘊盛苦
• 五蘊は実体がない:五蘊皆空、五蘊無我
を理解したら、お釈迦様が説いた「苦しまず生きることができますよ」という仏教の教えに近づくことができます。
途中ご紹介した、般若心経の一説「照見五蘊皆空度一切苦厄」のことです。
もう一度この部分を簡単に意訳すると、
• この世は自分の思い通りにならないことばかりで、苦しみばかりです(仏教用語で一切皆苦と言います)
• 苦しむ原因は皆さんの考え方・欲望(煩悩)です。
• 人は富や名声、愛を得たいと考えます。それらを得ることができないことで悩み苦しみます。
また莫大な財産・愛する人を得ることができたとしてもそれらを失わないようにすることで悩み、それらを失うことで苦しみます(煩悩)
• この苦しみを生む煩悩が生まれる原因はこの世は絶対に逆らえないルールを理解していないことです。
この世のルール(真理)とは「あなたの体や心(五蘊)を含む、この世のものは何一つ実体がない」ということです(五蘊皆空)
別の言葉で言うと、諸行無常・諸法無我です。
この世のすべては変化していく、実体がないのであれば、そこに執着する心が無くなり煩悩に悩まされなくなるのですよ(仏教の最終目標)
となります。※あくまで簡単に解説したものですので、ご了承ください。

仏教の最も大事な4つの教え(四法印)も大まかに言うと考え方は同じです。

四法印とは「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」の四つを言います。
• 一切皆苦
この世は苦しみばかり
• 諸行無常・諸法無我
苦しみばかりになる原因は煩悩であり煩悩の原因はこの世のルール(真理)を受け入れないこと。
この世のルール(真理)である諸行無常と諸法無我を理解しましょう。
• 涅槃寂静
この世のルール(真理)を理解して、ただしい努力をすれば、煩悩に苦しまない安らかな悟りの境地に達することができますよ
となります

仏教用語の五蘊はとても科学的
なるべく仏教用語を出さないようにしたのですが、五蘊を含む、五蘊盛苦、五蘊皆空、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と漢字ばっかりの仏教用語が並んでしまいました。
しかし、これらの仏教用語・仏教の教えは全て「苦しみから逃れ、心安らかによい人生を歩むために必要なこと(悟りの境地・涅槃の境地に達すること)」というとてもシンプルな教えにつながっています。
このシンプルな仏教の教えは、お釈迦様というとてつもなく賢い方が、2500年前に考え付いたとても科学的で合理的なアプローチなのです。
物事の捉え方、私たちの心の動き一つを考えに考え、五蘊という5つのステップに分解して捉える。
仏教はこの五蘊のように、人生をどうやって生きるべきかを考えに考え抜いて、細かいステップに分解して説明してくれているのです。
涅槃という仏教が目指す世界についてはこちらで詳しく解説しています。
真言密教では、手に印を結び(身密)、口で真言を唱え(口密)、心に仏を思う(意密)ことで、仏の身体(身)、言葉(口)、心(意)の働きを表す「三密」と一体化することで悟りの境地に達すると考える。そのため印を結ぶこと(身密)は、口密、意密とともに特に重視されている。
また、真言密教では、右手の親指から順に識、想、受、色、という「五蘊」(仏教で、人間の心身をつくり上げていると考える5つのもの)、左手の親指から順に空、風、火、水、地という「五大」(万物をつくり上げる5つのもの)をそれぞれ象徴すると考え、印でこれらを組み合わせることでさまざまな教えを説く。また手指はそれぞれ、親指=大指、人差指=頭指、中指=中指、薬指=無名指、小指=小指という異名で表される。
印には数えきれないほどの種類があるが、諸尊(仏像)ごとにパターンがある。たとえば大日如来であれば、胎蔵界は膝の上に右手が上になるように、両手を仰向けに重ね、左右の親指の先を付ける「法界定印」、金剛界であれば金剛拳にした両手から立てて伸ばした左手の人差指を右手の小指で握る「智拳印」を結ぶ。そのため印は、その像が誰を表したものなのかを知る手掛かりにもなる。
真言密教では「十二合掌」と「六種拳」を、すべての印の基本となる印母としている。ちなみに印は、そのものに諸尊の力が宿るものであり、悟りである仏の真理へつながるもの。本来は、真理を伝える仏や菩薩などの真実の言葉である真言と並び、師から弟子に秘伝として授けられ、真言と合わせて結ぶものである。そのため、密教の僧が印を結ぶ場合、みだりに一般に見せることはせず、本来は法衣(衣服)の下で行う。